Wizとはぜんぜん関係ないのだけど、さいきん、フルトヴェングラーのCDにハマリ中なのであった。高校生の頃にクラスの友人からLPレコードを借り、テープに録音したりしていた時のことを思い出したりしている。ベートーヴェンやブラームスやチャイコフスキーなどをよく貸してもらった。モノラルの随分古い録音で「音が悪いなー」とか思ったりしながら聴いていて、でも聴いているうちにそれにも慣れて来て、聴き終わる頃にはもはやなんの違和感も感じていないのであった。しかしフルトヴェングラーのレコードを聴いた後にカラヤンとかベームなどの新しいレコードを聴くと、その音のよさにびっくりするのが常であった。ワタシが高校の頃は、ドイツの音楽界はカラヤンとカール・ベームとで人気が二分されていた時期だったと思う。他の有名な指揮者は、ゲオルク・ショルティ、バーンスタイン、メータ、ロリン・マゼール、ジュリーニ、若いアバド(アッバードなどと表記されたりしていた)、ムーティや、亡命したことで話題になったキリル・コンドラシン、東側のスヴェトラーノフ、ロジェストヴェンスキー、チェコのヴァーツラフ・ノイマンとかいった人たちの名前を思い出す。
フルトヴェングラーは、トスカニーニ、ストコフスキー、メンゲルベルク、セル、ムラヴィンスキーらなどとともに、モノラル世界の別格的存在として高い評価を受けており、それらの人々の中でも最高の賞賛を浴びていたのであった。その事情は今もなんら変わりはないようだ。フルトヴェングラーの場合は特に、モノラル指揮者たちの中でも特別の扱いで、他の指揮者たちは古びても、彼の録音は今も聴く者に新しい何か問題意識を提示するようで、今もまだ生き生きとしていて、その意味では現役といってもよいのではなかろうか。ワタシがここ最近聴いていちばん感じるのもそこのところだ。
聴いていて、非常に現代性を感じる。新しい。普通の意味の現代的な演奏というわけでは勿論なくて、古いスタイルの演奏なのだけれど、現代的だ。この新しさは古いものが周回遅れで今、かえって新しく感じられるという性質のものではなくて、いつの時代でも多分、新しい感じなのではないだろうか。フルトヴェングラーは多分、彼が生きていた時代というものを強く意識していたのではなかろうか。「いま、この時代のなかでどうあるべきか?」といったような問いがあったのではないかと想像している。
どんな古い時代でも、その時の歴史を強くうけとめ、同時代性を強く帯びた表現は、常に新しくいま、受け入れられるのではなかろうか、というのがワタシの考えだ。
フルトヴェングラーには多くの録音が残っていて、新たに発掘される録音や、古いのでも最新の技術できれいに聞こえるようにしたりしてなど、考古学あるいは考現学的な興味もあったりして、その辺も人気のひとつなのではないかと思われる。ワタシが痛く感銘したのはベートーヴェンの交響曲5番の、1947年5月27日の録音で、一緒に収録されているエグモント序曲も大変な演奏だと思った。しかし、いろいろ読んでみると、その二日前の5番のライブ録音がさらに物凄い、と書いている人もいて、こうなるとその録音も聴きたくなる。さらにまた「ウラニアのエロイカ」とか「バイロイトの第九」(←これは持っている)、「総統の第九」とか不思議めいた語彙がフルトヴェングラー周辺には飛び交っていて、こうなるとハマった人がさらにハマるのも分かる気がする。
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